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東京地方裁判所 昭和34年(行)29号 判決 1961年11月16日

原告 八田真利

被告 国

訴訟代理人 鰍沢健三 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

一、原告訴訟代理人は、「一、別紙物件目録記載の土地について、昭和二二年一二月二日付で旧自作農創設特別措置法第三条にもとづいてなされた買収処分は無効であることを確認する。二、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、予備的に「一、別紙物件目録記載の土地について、昭和二二年一二月二日付で旧自作農創設特別措置法第三条にもとづいてなされた買収処分は、別紙図面赤斜線部分の土地七畝歩については無効であることを確認する。二、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めた。

二、被告指定代理人は、本案前の申立として「原告の訴を却下する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、本案につき「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二、請求の原因

一、原告は別紙物件目録記載の土地(以下本件土地という)を所有していたところ、被告は、昭和二二年一二月二日、本件土地について旧自作農創設特別措置法(以下自創法という)第三条第一項第一号に基づき買収処分(以下本件買収処分という。)をした。

二、しかし右買収当時原告は本件土地の所在する神代村に居住しており、かつ、本件土地の一部は小作地でないから、本件買収処分には自創法第三条第一項第一号の要件を欠くかしがあり、しかもそのかしは重大かつ明白であるから、本件買収処分は無効である。すなわち、原告は本件土地を昭和一八年四月ころから少年保護事業を目的とする財団法人施無畏学園(東京都北多摩郡神代村金子一三七五番地所在)に無償で貸与していたが、食糧事情が窮迫して来たため、昭和二一年五月ころ本件土地のうち別紙図面斜線部分の土地七畝歩の返還を受け、以来原告及び原告の父母、祖母が東京都台東区浅草花川戸一丁目の自宅から通つて野菜等を作つていた。もつとも原告自身は同年一二月前記施無畏学園に同居し、以来昭和二二年末に再び浅草の自宅に帰るまでの間右施無畏学園内に居住して耕作に従事し、右浅草の自宅に帰宅後昭和二三年春ころまでの間は再び同所から通勤して前記七畝歩の土地を耕作していたものである。このように本件土地は、一部は在村地主たる原告の自作地であり、残りはその小作地であるから、これをすべて不在地主の所有する小作地と誤認してなした本件買収処分には重大なかしがる。そして原告の自作地は畦の作り方により一目瞭然他と識別できる状態にあつたのみならず、原告が昭和二二年五月三一日、同年七月二〇日、同月二三日の三回にわたり神代村農地委員会に対し、本件土地について自創法第五条第五号による買収除外の申請をした際、原告は神代村に居住しており、かつ、本件土地の一部を自作している旨申し立てたから、同委員会としても右の事実を充分認識していたはずであつて、これらの点にかんがみるときは、右かしは明白であるといわねばならない。

三、よつて原告は被告に対し、本件買収処分の無効であることの確認を求め、仮に本件買収処分全部が無効にならないとするならば、予備的に、別紙図面斜線部分の自作地七畝歩について、その無効であることの確認を求める。

第三、被告の主張

一、行政処分の無効確認訴訟は、行政処分の取消変更を求める訴訟とその性質を同じくする抗告訴訟であるから、行政事件訴訟特例法第三条の規定が適用せらるべく、したがつて国を被告とする本件無効確認訴訟は、被告適格を欠く者を被告とした不適法な訴であつて、却下せらるべきである。

二、原告主張の第二の一の事実は認める。第二の二の事実のうち、原告が昭和一八年四月本件土地を施無畏学園に貸与したこと、昭和二二年五月三一日、同年七月二〇日、同月二三日の三回、神代村農地委員会に対し、本件土地につき自創法第五条第五号の買収除外の申請があつたことは認めるが、右申請者が原告であることは知らない。その余の事実は否認する。

三、本件買収処分当時、原告は埼玉県北足立郡与野町大字下落合一、一三八番地に居住していたもので、本件土地はその借地人たる施無畏学園において、少年審判所より委託を受けた少年達をして耕作せしめていたものであるから、東京都知事が自創法第三条第一項第一号によりこれを買収したことに何等のかしはない。

第四、証拠関係<省略>

理由

第一、被告の本案前の抗弁について、

被告は、本件訴は行政事件訴訟特例法(以下単に特例法という)第一条に言う「行政庁の違法処分の取消または変更にかかる訴訟」とその性質を同じくする抗告訴訟の一種であるから、その被告たるべき者は本件買収処分をなした行政庁たる東京都知事であつて、被告国は、当事者適格を欠くと主張するので、まずこの点について判断する。

行政庁の処分の無効確認を求める訴は、過去においてなされた特定の処分につき、それが重大かつ明白なかしがあるため、なんらの法律上の効果を生じないものであることの確認を求める訴であり、当事者間の法律関係の存否の確定を求める当事者訴訟たる公法上の確認訴訟と異なり、行政庁による公権力の行使たる特定の処分そのものをとらえてその違法を攻撃し、その有する表見的効力を確定判決によつて否定せしめ、これによりかかる表見的効力を有する処分の存在によつて害せられている原告の法律上の利益を回復しようとするものである点において同じく特定の処分そのものをとらえてその違法を攻撃し、これを取り消す旨の確定判決によつて遡及的に当該処分の効力を消滅せしめこれにより右処分の効果のため害せられている原告の法律上の利益を回復しようとする行政庁の処分の取消または変更を求める訴、すなわちいわゆる取消訴訟に親近性をもつ訴訟であることは、被告の主張するとおりである。それ故この点からみると、取消訴訟に関する行政事件訴訟特例法の規定は、原則として無効確認訴訟にもこれを類推適用すべく、従つて、同法第三条の規定も類推適用されるものと解するのが妥当であるようにも考えられないではない。しかしながら、これらの取消訴訟に関する規定も、その趣旨目的は区々であり、そこには取消訴訟のみならず無効確認訴訟にも当然妥当するような内容とその合理的な根拠をもつものが存するとともに、前者にのみ妥当し、後者には必ずしも妥当しないと解せられるものもあるのであるから、その類推適用にあたつては、これを画一的に決することなく、各規定ごとに個別的にその趣旨目的および根拠をつぶさに検討して、その類推適用の可否および類推適用せらるべき範囲を決定すべきものと解するのが相当である。本件において問題とせられている行政事件訴訟特例法第三条の規定は、取消訴訟における被告適格を当該処分をした行政庁に与えるとともに、これのみに限定したものであるが、右規定のうち前者の部分、すなわち処分行政庁に当事者能力と被告適格を与えた部分は、当該訴訟において争われている処分につき管理権を有し、またこれに関する知識と資料を有する行政庁に被告として訴訟を実施する権限を与えるのが適当であるという理由に基づいて設けられたものと考えられ、それはそれとして充分の合理性を有するものというべきであるから、取消訴訟の場合と同じく特定の処分を訴訟の対象とする無効確認訴訟にもこれを類推適用してしかるべきものと考えられるのであるが、後者の部分、すなわち被告適格を処分行政庁のみに限定した部分については、その類推適用につき右と同様の合理性を見出すことは困難である。立法論としては、取消訴訟につき、処分行政庁のみならず、その処分に係る事務の効力の帰属者、すなわち、当該行政庁がその機関として右処分を行なつたところの本体である国または公共団体そのものに被告適格を与えることも可能であり、またそれは必ずしも適切を欠くわけでもなかつたのであり、被告適格を処分行政庁のみに限定したことについては、格別の強い必然性や合理性を認め難いのである。そうだとすると、取消訴訟については、明文の規定が存する以上、処分行政庁のみに被告適格を認めることもやむを得ないとしても、かかる明文の規定のない無効確認訴訟についてまで、この部分を類推適用するのは適当でないといわなければならない。かかる類推適用を肯定することは、逆に、明文の制限規定がないため、いわば当該処分の本来の主体である国または公共団体をとらえ、これを被告として(行政事件訴訟特例法第三条の被告適格に関する規定がないとすれば、当然国または公共団体を被告とすべきものと解されることになろう。)無効確認訴訟を提起してきた原告に対して不測の不利益を与えることともなり、国民の権利救済を目的とする行政事件訴訟特例法の精神にも合致しないものというべきである。このような次第で、本件買収処分の無効確認訴訟については、国も被告適格を有するものというべきであるから、本件訴には被告を誤つた違法はない。

第二、本案についての判断

一、原告が本件土地を所有していたところ、被告が昭和二二年一二月二日これを自創法第三条第一項第一号に基き、いわゆる不在地主の所有する小作地として買収したことは、当事者間に争いがない。

原告は、昭和二一年一二月から翌二二年一二月末までの間は、本件土地の所在地と同一村である都下北多摩郡神代村(現在調布市金子町)の施無畏学園内に居住し、本件土地のその一部を原告およびその家族において耕作していたので、右土地は不在地主の所有する小作地ではないのに、これを不在地主の所有する小作地として買収したのは違法であり、右かしは重大かつ明白であるから、買収は無効であると主張し、被告はこれを争うので、以下これらの点について判断する。

二、原告の居住の有無について、

成立に争いのない乙第一号証の一、二証人八田英司の証言及び原告本人尋問の結果によると、原告及びその家族は昭和一九年一二月まで都内浅草に居住していたけれども、戦災にあつたため、埼玉県北足立郡与野町大字下落合六六九番地の二(昭和二二年八月三一日の地番変更により現在は一一三八番地となつており、与野町は与野市となつている。)に疎開し、同地に寄留して居住していたが、昭和二一年八月に浅草花川戸の原告肩書住所地に家屋が新築されたので、与野町を引揚げて浅草へ帰り、同地に昭和二一年一二月ころまで居住していたこと、そして、昭和二二年一二月末以降も、右浅草の住居に居住しているが、寄留及び住民登録は、引続いて昭和二八年八月一三日まで右与野町の住所地になされたままになつていたこと、なお原告を除く原告の父母、祖母等の家族は、与野町から引揚げてからは引続いて原告肩書住所地に居住していることを認めることができる。右認定を覆す証拠はなにもない。そこで原告がその主張するように右認定から除外された期間、すなわち、昭和二一年一二月から昭和二二年一二月末までは、前記施無畏学園に居住していたかどうかをみるに、前記八田証人の証言及び原告本人尋問の結果中には右原告主張に沿う部分があり、また八田証人の証言と押捺してある施無畏学園の印影が後述のように真正に成立したと認められる甲第一号証の印影と同一であること、その他文書の体裁から真正に成立したと認められる甲第四号証の一には、施無畏学園より神代村農地委員会にあてて、原告が昭和二一年一二月以降施無畏学園の一室に居住し、昭和二二年七月同園内に転入届をなした旨の記載があり、公印の部分の成立については争いがなく、その余の部分については、八田証人の証言により真正に成立したと認められる甲第四号証の二ないし四の各記載によれば、本件買収処分前に原告の名で同委員会に提出された買収除外指定申請書、再調査申請書等にはいずれも原告の住所として右施無畏学園が表示せられていて、一見原告の前記主張を肯定すべきもののようにみえる。しかしながら、右証人八田英司の証言及び原告本人尋問の結果中、原告の主張に沿う部分は、証人坂井孝栄の、同証人は同学園の主事として昭和一七年頃より昭和二二年四月末日まで事実上同学園の責任者として同学園内に居住して勤務し、更に同学園の職員を辞めた後においても同年五月一〇日頃まで同学園内に居住していたけれども、その間原告が同学園内の一室に居住していたことを記憶しておらない旨の証言、及び証人半田久治の、同証人は右坂井に引続いて昭和二二年五月一〇日頃より昭和三二年ころまで同学園内に居住し、当時、同学園内及びそれに隣接する旧カルナ学園跡に居住していた一〇余世帯の居住者は全部知つていたけれども、ついぞ原告をみたことがなかつた旨の証言、並びに原告自身その本人尋問において、右施無畏学園に居住していたと称する約一年の期間中に同学園に他にどういう人が居住していたか全然知らない旨供述していることと対比して考えると、たやすくこれに信を措き難いのみならず、更に前記認定のように、原告の寄留及び住民登録は、与野町におかれたまま神代村に寄留又は登録換えをされたこともないこと、原本の存在及びその成立に争いのない乙第二号証の一、二によると、原告が昭和一九年四月一日より、昭和二二年三月三一日まで在籍した中央大学専門部法学科には、原告の住所としては前記与野町のそれが届け出られており、また昭和二二年四月一日から昭和二五年三月二五日まで在籍した同大学法学部には、原告の住所としては現在の原告肩書住所地が届け出られていること、前記甲第四号証の二ないし四及び八田証人の証言によれば、原告の実父八田英司は、原告の名で本件土地の買収に関して、あらかじめ自創法第五条第五号の買収除外指定の申請をしたが、もし真に原告が神代村に居住していたならば、当然在村の地主の所有地として買収するべきものでない旨抗議したであろうと考えられるのに、かかる主張を神代村農地委員会に対してした形跡が全然ないことがそれぞれ認められ、これらの事実をあわせ考えると前認八田証人及び原告本人の供述部分の信憑性には、ますます疑わしいものがあるといわざるを得ない。又前掲甲第四号証の一の記載も、原告が施無畏学園内に転入届をした事実のないこと前記認定のとおりであることと対比して考えるときは、直ちに真実を記載したものとは認め難く、むしろ前記八田英司が神代村農地委員会に対する自己の主張を有利にするために施無畏学園に依頼して作成してもらつた文書ではないかとの疑いが濃いのであつて、これまた上記原告の主張事実を肯認する証拠とはなし難いし、前掲甲第四号証の二ないし四における原告の住所の表示も、原告側が一方的に記載したものにすぎないから、これにさしたる証拠価値を認めることはできない。要するに、さきに挙げた証拠は、いずれも採つてもつて原告主張事実を肯認する資料とはなし難いのであり、他にこれを認めしめる証拠は全く存在しない。それ故原告の上記主張は、これを採用することができない。

三、自作地かどうかについて、

本件土地を昭和一八年四月頃から少年保護事業を目的とする財団法人施無畏学園に貸与したことは当事者間に争いない事実であるところ、原告は昭和二一年五月ころ本件土地のうち、別紙図面記載の斜線部分七畝歩の返還をうけ、昭和二三年春ころまで自己及びその家族においてこれを耕作していたと主張するので、この点につき考えるに、証人坂井孝栄、同八田英司、の各証言により成立を認めうる甲第一号証の記載と右各証人の証言の一部、証人久我通顕の証言及び原告本人尋問の結果の一部によれば、施無畏学園に対する本件土地の賃貸期間は昭和一八年四月一日より一年間、賃料は年千円で、最初の一年分の賃料は支払われたが、その後の賃料は支払われていないこと、及び昭和一九年以降のある時期において原告の家族の者が浅草花川戸の自宅から通つて本件土地の一小部分を自家食糧補給のために耕作し、野菜類を作つていたことがあることを、それぞれ認め得ないではないけれども、右耕作に係る土地の部分が原告主張の七畝歩であること、その部分は施無畏学園が耕作している他の部分と明白に区分されていたこと、右耕作期間が原告主張のごとくであることはこれを認めるに足る証拠がなく、(前掲証人八田英司、同久我通顕の各証言及び原告本人尋問の結果中、上記の点に関し原告の主張に沿う部分は、後記各証拠と対比して信を措き難い。)かえつて証人坂井孝栄、同半田久治、同遠藤金蔵、同常磐喜之治の各証言をあわせると、本件土地は、前記のように、施無畏学園が原告から借り受け、学園の責任者である坂井孝栄が園児とともにこれを耕作して小麦、いも、野菜類を栽培し、一年の賃貸期間経過後も、格別原告から土地の返還を要求せられることもなく、坂井等において引き続きこれを耕作し、昭和二二年四月ころ坂井が施無畏学園を辞めたのちは、同学園の経営者である浅草寺の傭人である半田久治が同学園に移り住んで、引き続き耕作し、麦等を作つてきたこと、この間、前記認定のようにある時期において原告の家族が本件土地の一部を耕作したことがあるが、それは本件土地の極く一小部分であり、これらの者が前記坂井ないしは半田等とは別に一部土地を耕作していたことも外観上は明らかでなく、(遠く浅草から通つて耕作するのであるから、時折来て耕したり、手入れをしたりする程度のものであつたであろうことは推察に難くない。)近くの土地を耕作しており、また神代村農地委員会の委員ないしは補助員として昭和二二年四月から同年六月にかけて本件土地を含む附近地区の農地の一筆調査に当つた、右遠藤金蔵、及び常磐喜之治等も右事実を全く知らず、本件土地は右全期間を通じて坂井等施無畏学園関係者が耕作しているものと思つていた状態であつたことをそれぞれ認めることができる。証人八田英司、同久我通顕の各証言及び原告本人尋問の結果中、右認定と牴触する部分はたやすく採用し難く、他にこれを左右すべき証拠はない。これによつてみれば、本件土地中には、原告の家族が耕作していたと考えられる土地が一部含まれていたことは上記のとおりであるとしても、その範囲及び時期は明らかでなく、本件土地の買収計画が定められた昭和二二年一一月当時(この時期は原本の存在及び成立に争いのない乙第三号証の一ないし三、第四号証によつて認めることができる。)においてなお原告の家族による一部の耕作が行われていたかどうかも不明であるから、本件土地の買収に原告の指摘するごときかしが存すると断定することは困難であるのみならず、仮にこれを肯定するとしても、本件土地の大部分は前認坂井、半田等施無畏学園関係者またはその経営者である浅草寺の関係者の耕作に係る土地でり、原告の家族が耕作していた土地はその僅少部分で、しかもその範囲は明らかでなく、外部的にはむしろその全部が右坂井等の耕作する土地であると考えられたとしても無理からぬ状況にあつたこと上記のとおりであるから、少なくとも本件買収処分には、原告の自作地であることの明らかな土地を含む本件土地の全部を不在地主の小作地として買収した明白なかしがあるとすることはできないものといわなければならない。よつてこの点に関する原告の主張も、結局理由なきものとして排斥をまぬかれない。

四、以上説示のとおり、原告の主張はいずれもその理由がないから、本訴請求はこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 位野木益雄 中村治朗 清水湛)

(別紙物件目録・図面省略)

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